-
お悔やみの言葉の基本、「ご愁傷様です」に込める心
葬儀の場において、深い悲しみの中にいるご遺族に、どのような言葉をかければ良いのか。多くの人が戸惑い、悩む瞬間です。その中で、最も一般的で、かつ最も広く使われているお悔やみの言葉が、「この度は、ご愁傷様でございます(ごしゅうしょうさまでございます)」です。この短いフレーズは、単なる儀礼的な挨拶ではなく、日本の文化に根差した、深い思いやりと共感の心が凝縮された、非常に優れた言葉と言えるでしょう。「愁傷」という言葉は、「愁(うれ)い、傷(いた)む」と書き、相手の深い悲しみや心の傷を、自分のことのように憂い、心を痛めている、という強い共感の気持ちを表しています。つまり、「ご愁傷様です」と伝えることは、「あなた様が、今、どれほど深く悲しみ、傷ついていることか、そのお気持ち、痛いほどお察しいたします」という、最大限の寄り添いのメッセージなのです。この言葉の素晴らしい点は、その汎用性の高さにあります。相手の宗教・宗派を問わず、また、お通夜、葬儀・告別式、あるいは後日の弔問といった、いかなる場面でも使うことができます。もし、他に適切な言葉が思い浮かばない場合は、この一言を、心を込めて、静かな口調で伝えるだけで、あなたの弔意は十分に伝わります。この言葉に続けて、「心よりお悔やみ申し上げます」というフレーズを加えても、より丁寧な印象になります。「お悔やみ」とは、故人の死を悼み、悲しむ気持ちを述べる言葉です。「ご愁傷様です」がご遺族の心に寄り添う言葉であるのに対し、「お悔やみ申し上げます」は故人への弔意を示す言葉であり、この二つを組み合わせることで、より多層的なお悔やみの気持ちを表現することができます。大切なのは、流暢に言うことではありません。たとえ言葉が途切れ途切れになったとしても、相手の目を見て、深く一礼しながら、誠実な気持ちで伝えること。その姿勢こそが、悲しみに沈むご遺族の心を、少しでも温めることができる、何よりの慰めとなるのです。
-
参列者としての通夜のマナー、服装と振る舞い
お通夜に参列する際、その振る舞い方には、故人様とご遺族への深い配慮が求められます。特に、お通夜は「急な訃報を受け、取り急ぎ駆けつける」という性質を持つ儀式であるため、葬儀・告別式とは少し異なる、独自の服装マナーが存在します。まず、服装についてですが、現代では、お通夜にも準喪服(ブラックスーツやブラックフォーマル)で参列するのが一般的となっています。しかし、もし仕事先から直接駆けつける場合などで、喪服に着替える時間がない場合は、地味な色合いのダークスーツ(濃紺やチャコールグレーなど)でも、失礼にはあたらないとされています。これは、「仕事の都合を投げうってでも、急いで駆けつけました」という、弔意の表れと解釈されるからです。ただし、その場合でも、シャツは白無地、ネクタイと靴下、靴は黒色のものに履き替えるなどの、最低限の配慮は必要です。事前に準備ができるのであれば、もちろん準喪服を着用するのが最も丁寧です。次に、会場での振る舞いです。受付では、小さな声で「この度はご愁傷様でございます」とお悔やみの言葉を述べ、香典を手渡します。ご遺族との対面では、長々と話しかけるのは避けましょう。深い悲しみの中にいるご遺族にとって、多くの弔問客への対応は大きな負担です。「お辛いでしょうが、どうぞご無理なさらないでください」といった、いたわりの言葉を簡潔に伝え、深く一礼するに留めるのが、本当の思いやりです。故人の死因などを尋ねることは、最も避けるべき行為です。焼香の際は、自分の宗派の作法で行って構いませんが、前の人の動きに合わせるのが無難です。そして、儀式が終わると「通夜振る舞い」の席に案内されますが、これは弔問客への感謝の印ですので、勧められたら、少しの時間だけでも席に着くのがマナーです。一口でも食事に箸をつけることが供養になると言われています。ただし、長居は禁物です。30分から1時間程度を目安に、頃合いを見計らって、「本日はこれで失礼いたします」と、ご遺族や世話役の方に静かに挨拶し、退出します。常に控えめな態度で、ご遺族の心に寄り添う姿勢を忘れないこと。それが、通夜における参列者の最も大切な心得です。
-
通夜振る舞いの席の意味と過ごし方
お通夜の儀式が終わった後、参列者が案内される会食の席、それが「通夜振る舞い(つやぶるまい)」です。この通夜振る舞いは、単なる食事会ではなく、日本の葬送文化における、いくつかの深い意味合いを持っています。その意味を理解することで、参列者としても、また遺族としても、より意義深く、その時間を過ごすことができます。まず、第一に、通夜振る舞いは、急な知らせにもかかわらず、故人のために駆けつけてくださった弔問客への、ご遺族からの「感謝」の気持ちを表すものです。貴重な時間を割いてくれたことへの御礼として、食事や飲み物でおもてなしをする、という意図があります。第二に、故人への「供養」という意味合いです。仏教では、食事を皆で分かち合うこと(布施)が、善行であり、それが巡り巡って故人の功徳になると考えられています。そのため、参列者が食事に箸をつけること自体が、故人への供養となるのです。そして第三に、最も重要な意味合いが、故人を「偲ぶ」ための、思い出を語り合う場である、ということです。お酒が少し入ることで、雰囲気も和らぎ、参列者同士が、あるいはご遺族と参列者が、生前の故人との思い出話を語り合います。「昔、故人とこんなことがあった」「故人はこんな人だった」。そうした会話を通じて、故人の人柄がより深く、温かく、その場にいる人々の心の中に蘇ります。これは、悲しみの中にいるご遺族にとって、故人がいかに多くの人々に愛されていたかを再確認できる、大きな慰めの時間(グリーフケア)となるのです。参列者としてこの席に招かれた際は、勧められたら、必ず席に着くのがマナーです。一口でも、一口だけでも構いませんので、出された食事に箸をつけましょう。ただし、ご遺族は心身ともに疲弊しています。あまり長居をして、負担をかけることのないよう、30分から1時間程度を目安に、頃合いを見て、静かに席を立つのが賢明な配慮です。故人を偲び、感謝を伝え、そして静かに立ち去る。それが、通夜振る舞いにおける、最も美しい振る舞い方です。
-
私が父の葬儀で動画撮影を依頼した、本当の理由
父の葬儀で、私が動画撮影をプロの業者に依頼すると決めた時、一部の親戚からは、静かな反対の声が上がりました。「亡くなった人を撮影するなんて、不謹慎ではないか」「心の中に、そっと留めておけばいいじゃないか」。その気持ちは、痛いほど分かりました。しかし、私には、どうしても映像として残しておかなければならない、切実な理由があったのです。その最大の理由は、海外に住む、私のたった一人の弟のためでした。弟は、仕事の都合で、どうしても父の葬儀に駆けつけることができませんでした。電話口で、声を殺して泣いていた弟。「親父の最期に、顔も見られないなんて、俺はなんて親不孝なんだ」。そう言って自分を責める弟に、私は何と言ってやれば良いのか、言葉が見つかりませんでした。その時、思ったのです。せめて、父が、どれほど多くの人々に愛され、温かく見送られたかを、弟に伝えなければならない。父の立派な最後の姿を、弟の心に届けなければならない。それが、喪主である兄としての、私の最後の務めだと。私は、撮影業者の方に、二つのことを、強くお願いしました。一つは、棺の中の父の顔は、決してアップで撮らないでほしい、ということ。もう一つは、参列してくださった方々の、悲しい表情よりも、父の思い出を語り合う、温かい表情を、できるだけ多く撮ってほしい、ということ。葬儀が終わり、一ヶ月後、編集されたDVDが届きました。そこには、私が知らなかった、父を慕う多くの人々の姿と、涙と、そして笑顔が記録されていました。私は、そのDVDを、すぐに弟の元へ送りました。数日後、弟から国際電話がかかってきました。「兄さん、ありがとう。親父の周りに、あんなにたくさんの人が集まってくれてたんだな。親父は、幸せだったんだな。俺、これ見て、やっと、ちゃんと泣けたよ」。その声は、少しだけ、軽くなっているように聞こえました。動画撮影は、不謹-慎な行為などでは、決してありませんでした。それは、離れ離れになった家族の心を繋ぎ、悲しみを分かち合い、そして、父の生きた証を、未来へと繋いでいくための、私たち家族にとって、かけがえのない「希望の光」となったのです。
-
お通夜の基本的な流れ、受付から通夜振る舞いまで
大切な方との最後の夜を過ごす儀式、「お通夜」。その流れを事前に理解しておくことは、参列者としても、また将来、遺族として儀式を執り行う立場になった際にも、心を落ち着けて故人様と向き合うための、重要な準備となります。現代の通夜は、午後6時か7時頃から1〜2時間程度で執り行われる「半通夜」が主流であり、その流れは概ね次のように進行します。まず、開式の30分ほど前から、会場の入り口で「受付」が始まります。弔問客は、ここで「この度はご愁傷様でございます」とお悔やみの言葉を述べ、香典を手渡し、芳名帳に氏名と住所を記帳します。喪主やご遺族は、受付近くに立ち、訪れる弔問客をお迎えし、一人ひとりの弔意を受け止めます。定刻になると、司会者による開式の辞が述べられ、儀式が始まります。まず、祭壇に向かって僧侶が入場し、所定の席に着座します。そして、故人の魂を導き、仏の世界へと送るための、厳かな「読経」が始まります。この読経がお通夜の儀式の中心です。読経が響く中、まずは喪主から、続いて故人との血縁の深い順に、遺族、親族が祭壇の前に進み出て「焼香」を行います。親族の焼香が終わると、司会者の案内に従い、一般の弔問客の焼香が始まります。全員の焼香が概ね終わる頃を見計らって、僧侶の読経が終わり、時には仏様の教えに関する短いお話、「法話」が語られることもあります。そして、僧侶が退場し、儀式は閉式へと向かいます。ここで、喪主が参列者に向かって立ち、弔問への感謝、故人が生前お世話になったことへの御礼、そして翌日の葬儀・告別式の案内などを述べます。喪主の挨拶が終わると、司会者が閉式の辞を述べ、お通夜の儀式そのものは終了となります。この後、参列者は「通夜振る舞い」と呼ばれる会食の席へと案内されます。これは、弔問客への感謝を示すと共に、故人の思い出を語り合いながら、最後の夜を共にするための大切な時間です。この一連の流れを通じて、私たちは故人との別れを惜しみ、その死という現実を少しずつ受け入れていくのです。
-
お礼の言葉を求めない、遺族の「ありがとう」の意味
葬儀の場で、私たちがご遺族にお悔やみの言葉を述べると、多くの場合、ご遺族からは「恐れ入ります」「ありがとうございます」といった、お礼の言葉が返ってきます。深い悲しみの中で、気丈に、そして丁寧に、一人ひとりの弔問客に対応するその姿には、頭が下がる思いがします。しかし、この時、私たちは、ご遺族から返ってくる「ありがとう」という言葉の、本当の意味を、深く理解しておく必要があります。ご遺族が口にする「ありがとう」は、必ずしも、私たちの慰めの言葉が、その悲しみを軽くしたことへの感謝ではありません。それは、多くの場合、深い悲しみを抱えながらも、社会的な役割(喪主や遺族としての務め)を果たそうとする、必死の思いから発せられる、儀礼的な応答なのです。彼らは、心の中では、悲しみや混乱、怒りといった、様々な感情の嵐に苛まれています。その中で、社会人として、あるいは一家の代表として、「しっかりしなければならない」という強い責任感から、感謝の言葉を口にしているのです。したがって、私たちは、ご遺族からのお礼の言葉を、決して期待してはなりません。また、「ありがとう」と言われたからといって、「自分の言葉で、相手を少しでも元気づけられた」と、安易に自己満足に浸るべきでもありません。むしろ、「こんなに辛い状況なのに、わざわざお礼の言葉を言わせてしまって、申し訳ない」という、謙虚な気持ちを持つべきです。そして、もしご遺族が、涙を流すばかりで、何も言葉を返せなかったとしても、それを「失礼だ」などと、決して思ってはなりません。それこそが、ご遺族の、ありのままの、正直な心の状態なのです。私たちにできるのは、ただ、お悔やみの言葉を一方的に、そして静かに捧げ、相手からの応答を求めることなく、そっとその場を離れること。ご遺族を、これ以上疲れさせない。その静かな配慮こそが、葬儀の場における、最も成熟した、そして最も優しいコミュニケーションの形なのです。
-
絶対に使ってはいけない、葬儀での忌み言葉
ご遺族を慰めようとする、その温かい気持ちが、たった一つの不用意な言葉によって、かえって相手を深く傷つけてしまうことがあります。葬儀という非日常的な場には、「忌み言葉(いみことば)」と呼ばれる、使ってはならないとされる言葉や表現が存在します。これらは、不吉なことを連想させたり、ご遺族の悲しみを増幅させたりする可能性があるため、固く禁じられています。知らず知らずのうちに使ってしまうことを避けるためにも、事前にしっかりと確認しておくことが、社会人としての必須のマナーです。まず、最も注意すべきは、「不幸が重なること」を連想させる「重ね言葉」です。「重ね重ね」「たびたび」「くれぐれも」「ますます」「いよいよ」「再び」といった言葉は、弔事では使ってはいけません。例えば、「重ね重ね御礼申し上げます」は、「深く御礼申し上げます」に、「くれぐれもご自愛ください」は、「どうぞご自愛ください」のように、別の言葉に言い換える配慮が必要です。次に、直接的すぎる死の表現も避けるべきです。「死亡」や「急死」は、それぞれ「ご逝去(ごせいきょ)」「突然のこと」に、「生きている頃」は「ご生前(ごせいぜん)」に、「亡くなる」は「お亡くなりになる」「旅立たれる」といった、より丁寧で、穏やかな表現を用います。また、不吉な数字や言葉も禁句です。「四」は「死」を、「九」は「苦」を連想させるため、会話の中で意識的に避けるのが望ましいでしょう。「消える」「浮かばれない」「迷う」といった言葉も、故人の魂が成仏できないことを暗示するため、使うべきではありません。さらに、宗教・宗派に関する言葉にも注意が必要です。仏教用語である「ご冥福をお祈りします」「成仏」「供養」といった言葉は、キリスト教や神式の葬儀では使いません。キリスト教では「安らかな眠りをお祈りいたします」、神道では「御霊(みたま)のご平安をお祈りいたします」といった表現が適切です。宗派が分からない場合は、「心より哀悼の意を表します」という言葉が、宗教を問わず使える、最も無難な表現です。言葉は、人を癒やす力を持つと同時に、深く傷つける刃にもなります。悲しみの場だからこそ、細心の注意を払って、言葉を選びたいものです。