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形式にとらわれず心を込めて、家族葬における食事の新しい形
近年、葬儀の主流となりつつある「家族葬」。ごく近しい親族や、本当に親しかった友人だけで、小規模かつ温かい雰囲気の中で故人を見送るこの形式は、儀礼的な側面を簡略化する一方で、食事のあり方にも、大きな自由度と、新しい可能性をもたらしています。伝統的な通夜振る舞いや精進落としといった形式にとらわれず、故人やご遺族の想いを、よりダイレクトに反映させた、多様な「お別れの食卓」が生まれているのです。もちろん、家族葬であっても、従来の葬儀と同様に、斎場の会食室で、仕出しの懐石料理や弁当をいただく、という形式を選ぶこともできます。これは、準備の手間がかからず、落ち着いた雰囲気で故人を偲ぶことができる、最もオーソドックスな選択肢です。しかし、家族葬の持つ「自由度」は、私たちに、もっとパーソナルな食事の形を提案してくれます。例えば、故人が生前、足繁く通った、お気に入りのレストランや料亭を予約し、そこで食事会を開く、という形です。店の主人に故人の思い出話をしながら、故人が愛した料理を味わう。それは、故人の生前の「日常」を追体験するような、温かく、そして感動的な時間となるでしょう。また、ご自宅にケータリングサービスを呼んだり、あるいは、家族それぞれが得意な料理を持ち寄ったりして、リラックスした雰囲気の中で、故人を囲む最後の晩餐を楽しむ、という方法もあります。そこでは、伝統的なタブーに縛られる必要はありません。故人が大好きだった、焼肉やお寿司、あるいは中華料理を、皆でワイワイと囲む。それもまた、その人らしい、最高の供養の形と言えるでしょう。大切なのは、豪華な料理を用意することではありません。故人が、もしその場にいたら、「これだよ、これ!」と、満面の笑みを浮かべてくれるような、そんな食卓を、皆で創り上げること。家族葬における食事は、単なる会食ではなく、故人の人生と、残された家族の想いを表現するための、温かく、そして自由なキャンバスなのです。
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私が父の葬儀で動画撮影を依頼した、本当の理由
父の葬儀で、私が動画撮影をプロの業者に依頼すると決めた時、一部の親戚からは、静かな反対の声が上がりました。「亡くなった人を撮影するなんて、不謹慎ではないか」「心の中に、そっと留めておけばいいじゃないか」。その気持ちは、痛いほど分かりました。しかし、私には、どうしても映像として残しておかなければならない、切実な理由があったのです。その最大の理由は、海外に住む、私のたった一人の弟のためでした。弟は、仕事の都合で、どうしても父の葬儀に駆けつけることができませんでした。電話口で、声を殺して泣いていた弟。「親父の最期に、顔も見られないなんて、俺はなんて親不孝なんだ」。そう言って自分を責める弟に、私は何と言ってやれば良いのか、言葉が見つかりませんでした。その時、思ったのです。せめて、父が、どれほど多くの人々に愛され、温かく見送られたかを、弟に伝えなければならない。父の立派な最後の姿を、弟の心に届けなければならない。それが、喪主である兄としての、私の最後の務めだと。私は、撮影業者の方に、二つのことを、強くお願いしました。一つは、棺の中の父の顔は、決してアップで撮らないでほしい、ということ。もう一つは、参列してくださった方々の、悲しい表情よりも、父の思い出を語り合う、温かい表情を、できるだけ多く撮ってほしい、ということ。葬儀が終わり、一ヶ月後、編集されたDVDが届きました。そこには、私が知らなかった、父を慕う多くの人々の姿と、涙と、そして笑顔が記録されていました。私は、そのDVDを、すぐに弟の元へ送りました。数日後、弟から国際電話がかかってきました。「兄さん、ありがとう。親父の周りに、あんなにたくさんの人が集まってくれてたんだな。親父は、幸せだったんだな。俺、これ見て、やっと、ちゃんと泣けたよ」。その声は、少しだけ、軽くなっているように聞こえました。動画撮影は、不謹-慎な行為などでは、決してありませんでした。それは、離れ離れになった家族の心を繋ぎ、悲しみを分かち合い、そして、父の生きた証を、未来へと繋いでいくための、私たち家族にとって、かけがえのない「希望の光」となったのです。
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弔いの食卓に込める思い、葬儀で避けるべき食材と理由
葬儀の場で振る舞われる食事には、私たちの想像以上に、細やかな配慮と、守るべき伝統的なルールが存在します。どの食材を選び、どの食材を避けるか。その選択の一つひとつに、故人への敬意と、弔いの場としての「けじめ」を示す、深い意味が込められているのです。その根底にあるのが、仏教の「不殺生(ふせっしょう)」の教えに基づいた、「精進料理(しょうじんりょうり)」の考え方です。本来、弔事の食事では、肉や魚といった、動物の殺生を直接的に連想させる食材(いわゆる「四つ足生臭もの」)は、厳しく避けられてきました。ご遺族が四十九日の忌明けまで肉や魚を断つ「精進期間」を過ごしていたことからも、その思想の根深さがうかがえます。現代の通夜振る-舞いでは、参列者をもてなすという意味合いから、寿司(魚)やサンドイッチ(肉)なども出されることが多くなりましたが、本来の伝統としては、野菜や豆腐、穀物を中心とした料理が基本であったことを、知っておくことは重要です。また、これ以上に厳格に避けなければならないのが、「お祝い事」を連想させる食材です。その代表格が、おめでたい席の象徴である「鯛」や「伊勢海老」です。これらの華やかな食材は、結婚式などの祝宴には欠かせませんが、悲しみの場である葬儀には、全くふさわしくありません。同様に、紅白の色合いを持つ「紅白かまぼこ」や「お赤飯」、そして縁起物とされる「昆布(よろこぶ)」や「鰹節(勝男武士)」なども、祝事を連想させるため、弔事の食事ではタブーとされています。お酒については、「お清め」という意味合いを持つため、日本酒やビールなどが振る舞われることは一般的です。ただし、その際の掛け声は、グラスを高く掲げて打ち合わせる「乾杯(かんぱい)」ではなく、故人へ杯を献じるという意味の「献杯(けんぱい)」です。静かにグラスを目の高さまで掲げ、厳かに唱和するのがマナーです。これらのルールは、決して堅苦しいだけの縛りではありません。食という、私たちの生命の根源に関わる行為において、祝と弔を明確に区別し、故人を偲ぶという儀式の神聖さを守るための、先人たちが育んできた、深い知恵と祈りの形なのです。
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お通夜の基本的な流れ、受付から通夜振る舞いまで
大切な方との最後の夜を過ごす儀式、「お通夜」。その流れを事前に理解しておくことは、参列者としても、また将来、遺族として儀式を執り行う立場になった際にも、心を落ち着けて故人様と向き合うための、重要な準備となります。現代の通夜は、午後6時か7時頃から1〜2時間程度で執り行われる「半通夜」が主流であり、その流れは概ね次のように進行します。まず、開式の30分ほど前から、会場の入り口で「受付」が始まります。弔問客は、ここで「この度はご愁傷様でございます」とお悔やみの言葉を述べ、香典を手渡し、芳名帳に氏名と住所を記帳します。喪主やご遺族は、受付近くに立ち、訪れる弔問客をお迎えし、一人ひとりの弔意を受け止めます。定刻になると、司会者による開式の辞が述べられ、儀式が始まります。まず、祭壇に向かって僧侶が入場し、所定の席に着座します。そして、故人の魂を導き、仏の世界へと送るための、厳かな「読経」が始まります。この読経がお通夜の儀式の中心です。読経が響く中、まずは喪主から、続いて故人との血縁の深い順に、遺族、親族が祭壇の前に進み出て「焼香」を行います。親族の焼香が終わると、司会者の案内に従い、一般の弔問客の焼香が始まります。全員の焼香が概ね終わる頃を見計らって、僧侶の読経が終わり、時には仏様の教えに関する短いお話、「法話」が語られることもあります。そして、僧侶が退場し、儀式は閉式へと向かいます。ここで、喪主が参列者に向かって立ち、弔問への感謝、故人が生前お世話になったことへの御礼、そして翌日の葬儀・告別式の案内などを述べます。喪主の挨拶が終わると、司会者が閉式の辞を述べ、お通夜の儀式そのものは終了となります。この後、参列者は「通夜振る舞い」と呼ばれる会食の席へと案内されます。これは、弔問客への感謝を示すと共に、故人の思い出を語り合いながら、最後の夜を共にするための大切な時間です。この一連の流れを通じて、私たちは故人との別れを惜しみ、その死という現実を少しずつ受け入れていくのです。
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お礼の言葉を求めない、遺族の「ありがとう」の意味
葬儀の場で、私たちがご遺族にお悔やみの言葉を述べると、多くの場合、ご遺族からは「恐れ入ります」「ありがとうございます」といった、お礼の言葉が返ってきます。深い悲しみの中で、気丈に、そして丁寧に、一人ひとりの弔問客に対応するその姿には、頭が下がる思いがします。しかし、この時、私たちは、ご遺族から返ってくる「ありがとう」という言葉の、本当の意味を、深く理解しておく必要があります。ご遺族が口にする「ありがとう」は、必ずしも、私たちの慰めの言葉が、その悲しみを軽くしたことへの感謝ではありません。それは、多くの場合、深い悲しみを抱えながらも、社会的な役割(喪主や遺族としての務め)を果たそうとする、必死の思いから発せられる、儀礼的な応答なのです。彼らは、心の中では、悲しみや混乱、怒りといった、様々な感情の嵐に苛まれています。その中で、社会人として、あるいは一家の代表として、「しっかりしなければならない」という強い責任感から、感謝の言葉を口にしているのです。したがって、私たちは、ご遺族からのお礼の言葉を、決して期待してはなりません。また、「ありがとう」と言われたからといって、「自分の言葉で、相手を少しでも元気づけられた」と、安易に自己満足に浸るべきでもありません。むしろ、「こんなに辛い状況なのに、わざわざお礼の言葉を言わせてしまって、申し訳ない」という、謙虚な気持ちを持つべきです。そして、もしご遺族が、涙を流すばかりで、何も言葉を返せなかったとしても、それを「失礼だ」などと、決して思ってはなりません。それこそが、ご遺族の、ありのままの、正直な心の状態なのです。私たちにできるのは、ただ、お悔やみの言葉を一方的に、そして静かに捧げ、相手からの応答を求めることなく、そっとその場を離れること。ご遺族を、これ以上疲れさせない。その静かな配慮こそが、葬儀の場における、最も成熟した、そして最も優しいコミュニケーションの形なのです。